【質問】
日曜日の先生のメッセージ勇気をいただきました。
ただ、同時に自分のジャストフィットって?という疑問が出てきます。
過去を振り返ると私は大抵過小評価をしすぎる傾向がある様です。
自分で歯がゆい思いを何度も経験しました。
神様にお聞きしたいのですか、未だ聞こえて来ません。
祈り方が悪いのか?と思ってみます。
何か私に出来る事が有りますか?
【答え】
過小評価してしまう思い、私にも覚えがあります。
せっかく、目の前にステップアップのチャンスや、チャレンジが来たのに、自分には、到底出来そうにないと思って、手を挙げなかったために、チャンスを逃してしまうということもありました。
十字架の後のペテロも同じ思いで隠れていたのかもしれません。
彼を立ち直らせ、立ち上がるだけではなく強い力を与えたのは、聖霊であることはわかっているのですが、「私はそれほど信仰深くないし、祈りも足りない」と誰もが思うことではないかと思います。
ジャストフィットという自分のあり様は、やはり、神様から来るものです。
過小評価も過大評価も、実は同じもので、表裏一体なのだと思います。
「自分は、本当はこうあるべきなのに、そこに到達していない」という焦燥感みたいなものを感じていたりすると、それとのギャップを埋めようとして、どちらかの思いになることがあるのかもしれません。
ペテロも、「私はイエス様の一番弟子だったのに」と思えば思うほど、恐れがやってきたのではないでしょうか?
さて、そこでどうするか?
最近私が思わされるのは、「こうあるべきだ、というのは、本当だろうか?」ということです。
それは、親や同僚や家族や社会や自分自身が期待しているものであるかもしれませんが、神様の思いだろうか?と考えるとき、ホッとするというか、これでいいんだという原点に戻されます。
天才バカボンみたいに、「これでいいのだ!」と開き直る時に、初めてジャストフィットのスタートラインに立てたように思います。
そうすると、真っ白なスケッチブックに描き始めるように、神様は働きやすくなるのです。
こだわりが支配している心には、神様の声は届きにくいのです。それは、信仰が足りないからではなく、雑音が多いからです。
祈るとすれば、ジャストフィットをお願いする前に、心をリセットしていただくようにお願いするのはどうでしょう?
そのためには、「神様、あなたは私を愛して、すばらしい人生へと導いてくださいますよね?!」という思いで主の前に立たなければならないでしょう。
そのためには、本気で自分自身のこだわりを、ささげるというか、良い意味で諦めることが前提となります。
イエス様が、「ささげる時に、それを得る」というのは、そういうことだと思います。
主は、私達が求めてきた以上に良い道へと導かれます。
ある日、私達は、過小評価したり、自分を大きく見せようとしたりするよりも、はるかに楽に、リラックスして、社会の比較の中から抜け出して、自由な翼をかって飛んでいる人生を送っていることに気付くことでしょう。
ジャストフィットなご自分を見つけるために、少しでも助けになると良いのですが。
私自身も発展途上であり、神様が成熟へと導かれている一人として、ご一緒に主に求めて参りたいと思います。