2012年9月28日金曜日

私達と関係を結ばれる神様

先日の礼拝で、「奴隷」と「自由人」という、少しショッキングなタイトルを付けました。

【信頼関係】
イエス・キリストを信じるようになって、最も学んだことの一つは、「信頼関係」(relationship)です。
 多くの人が「関係」ということについて、理解できないでいるように思います。それは、あまりにも多くの「見えないルール」が存在しているからだと思います。
「ここは当然こうすべきでしょう・・・」という期待感のようなものが漂っていて、私達はなんとなくそういうルールに流されているような気がします。
けれども、それは本当の信頼関係ではなく、「丸くおさめる」ための方便だったりします。

【良い人?それとも奴隷?】
最近読んだ「良い人はなぜ病気になるのか?」という本には、「良い人というのは、周囲の人々の期待に応えてしまう人」という定義が書いてありました。
本当はそう思っていないのに、そう期待されるから、行動したり、言ったりするのなら、本当の「良い人」ではないというのです。そういうことを続けていると、自分の思っていないライフスタイルになるので、病気になってしまうそうです。
奴隷というのは、言わば「周囲の人々の期待の奴隷」とも言えるかもしれません。

【愛するというのは?】
本当に相手のことを思って、愛をもって正しいことをすること。言うこと。それが聖書で言っている「隣人を愛する」ということだと思います。ある時には、相手が気に入ってくれないかもしれません。けれども、もしその人との間に、「本当の信頼関係」という土台があれば、きっとわかってもらえると思うのは、甘いのでしょうか。たとえ、分かってもらえなくても、愛をもって正しいことをする人になれればと思います。
それは丁度、子育てと似ています。どんなにその子が嫌がっても、甘い物ばかりを食べることを止めなければ、虫歯になり、病気になってしまうので、それを止めなければなりません。子供が気に入ることをしていたら、きっとその子は自立できなくなってしまいます。

【私の夢–人々が幸せになるためのお手伝いをすること】
私の夢は、私が生きていることを通して、一人でも多くの人が幸せになってくれることです。
そのためには、まず私が幸せである必要があると、いつも思わされます。
そして、私は今とても幸せであると言えます。それは、神様を通して、家族や教会の方々、友人や周囲の人々を通して、すばらしい祝福をいただいているからです。

【神様は私達と信頼関係を結ばれる】
もし、聖書の神様が私達と信頼関係を結ぼうとされているなら、私達がそれに応えることは素晴らしい祝福につながります。「神様は、こういう方だから、きっと良くして下さる」と信頼できるということです。
「この決まりを守ったら、罰が当たらないよ」と言うのは、信頼関係ではなく、「脅し」です。親子関係にも、その二つがあるように、私達もどちらを選ぶか考えなければならないと思います。

【イエスは、私達のことを同情できる方】
今日読んだ聖書の箇所にこうありました。(口語訳です)

ヘブル人への手紙 4:15, 16 
"この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座(つまり神様のところ)に近づこうではないか。"



なんだか、ちょっと偉そうな文章になってしまいました。先日のメッセージの補足として書きました。

2012年9月27日木曜日

礼拝9/23「恐れによる「奴隷の人生」と愛による「自由な人生」


メッセージ:林 幸司
聖書箇所:ガラテヤ5章全体
ガラテヤ5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

I.多くの人は自分が奴隷であることに 気付かない 

・聖書は、すべての人間が、「奴隷のくびきを負って生きてきた」と宣言している
多くの人々は、「私は自由だ」と思っていて気付かない
聖書の言う「奴隷状態」とは何か?
恐れを土台とし、決まりを守ることに終始してしまい、受け身的で他者と比較して生きる人生
人は誰でも、聖書の言う「奴隷」か「自由人」かを選択できる

II.自由の使い方を 学ぶ 必要がある
ガラテヤ5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。
イエス・キリストの十字架の贖い(あがない)によって、私達が自由にされる道が開かれた
それを認めて受け入れる時、初めて真の自由を得ることができる
「与えられた自由」を、自己中心のために用いることもできる。
神様は自由を用いて、愛をもって互いに仕えるように勧めている。
その結果、私達自身も周囲の人々も自由の中に生きることが出来る。
律法、規則、強制によってではなく、自発的な愛を発信する時、奴隷から自由人となり、多くの人々に良い影響を及ぼすことができる

III.  御霊 によって生きる 
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
私達の内側にある本来の性質(肉)は、神様が私達に送られた御霊と対立する
キリストの十字架によって与えられた自由をもって生きるためには、肉の声ではなく、御霊の声に耳を傾けて生きる必要がある
  ・愛をもって自由人として生きるために、聖霊の声に従いましょう





礼拝9/16「他人を変えようとしないで自分を変える」

メッセージ:林 幸司

聖書箇所:ガラテヤ5:22-23、
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

I.柔和は、 かたくな になっている人の心を和らがせる
箴言16:7 【主】は、人の行いを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。
「正しさ」によって、人々は心を開くのではない
「穏やかさ」「受け入れてもらえる」雰囲気がある時に、初めて心を開く
同じ問題でも「事を荒立てる」ことはできるが、人は心を閉ざし、状況は行き詰まる
「穏やかに対処する」なら、人の心が開かれ、解決の道が見える
いつも冷静に、大騒ぎすることなく、争うことなく問題解決をはかる
御霊は、そのような不可能に思えることを解決してくださる

II.自制は、すべての御霊の実と賜物の 監督 のような存在
1コリント 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
自制(セルフ・コントロール)には、目的がある
私達の存在を通して、人々が祝福され、幸せな人生を歩み、神様の栄光が表されるため
自制に必要なのは、「忍耐」と「敬虔」
どんなにすばらしい御霊の実と賜物を持っていても、それをちゃんとコントロールすることができなければ、台無しになってしまう。
相手をコントロールすることはできない
自分自身をコントロールすることのために、努力すること

III. 聞いて 行う 者になる
ヤコブ 1:22 また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
毎日少しずつ、御言葉を実践することに挑戦しよう
「規律は軽く、後悔は重い」今日からの少しずつの挑戦が、数年後には大きな祝福となって現れる
「私は、九つの御霊の実を持っている人になりたい」という目標をかかげるなら、今日から始めなければならない。
愛さないより、愛することを。悲しむことより、喜ぶことを。不安と戦って平安を。赦さないことを手放して人を寛容にすること。意地悪をしないで親切に。いつも悪意を捨てて善意で行動する。神様と人々に対して誠実さを尽くす。何事も事を荒立てずに、平和に問題解決に臨む。他人ではなく、自分自身をコントロールできるようになる
その一つ一つについて、今日から始める事を書き留めてみましょう
                            

2012年9月13日木曜日

ケアセルのこと

2005年に、初めてシンガポールにあるトリニティー・クリスチャン・センター(TCC)の「ケアセルセミナー」に参加しました。
 初めは、用語の一つ一つから何が何だかわからなかったのですが、毎年一回の現地でのセミナーだけでなく、シンガポールから来て下さる主任牧師のドミニク・ヤオ先生やチームの先生方に様々なことを教わりました。

 2007年に、東京メトロチャーチにもこのモデルを採用しようということになり、取り組んできました。そして、昨年4月から本格的にケアセル方式にシフトしました。

 ケアセルというのは、小さなグループで週日に6〜10名ほどがそれぞれの場所で集まり、神様を賛美したりお互いのことを励まし合ったりしながら、一緒に成熟していこうとする働きです。
 当初は私達と同じように、ぴんと来なかったメトロのメンバーのみなさんも、段々とそのすばらしい体験を受け入れるようになりました。
 何よりすばらしいのは、互いの信頼関係が構築され、それが周囲の人々(会社や学校、コミュニティー)に伝わり始めていることだと思います。

 この働きに、加わって下さっているメトロのみなさんに感謝します。また、これを支えて下さっているTCCのみなさんに心から感謝です。

2012年9月12日水曜日

御霊の実シリーズ

今、礼拝では御霊の実シリーズをお話しています。
先日は、誠実について。
神様に対しては信仰、人々に対しては誠実とも言えるのではないかと思います。

そんな関係を図にしてみました。

礼拝9/9誠実に正しく生きることの難しさ


誠実に正しく生きることの難しさ
メッセージ:林 幸司 主管牧師
聖書箇所: ガラテヤ5:22、ローマ3:12、ガラテヤ6:9、マタイ10:16など
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:22 But the fruit of the Spirit is love, joy, peace, longsuffering, gentleness, goodness, faith,KJV
I.イエス・キリストは信頼できる方
ローマ 10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
l  神様のもとには、良いものが溢れていて、その性質を私達が身につけるようにと願っておられる
l  誠実(ギリシャ語:ピィスティス)は、「信仰」とも訳される言葉
l  誠実=信頼しても大丈夫であること
l  その神様につながっている時、私達の内側に、人々から信頼される誠実さが身につく

II.神様への揺るがない信仰を持ち、人々から信頼される生き方
Iテモテ3:13 執事の務めをりっぱに果たす人は、人からは尊敬され、また、自ら主への確信と信頼もますます強められて、二重の報いを受けることになります。(リビングバイブル)
l  誠実という聖霊の実は、神様に向かう時に「信仰、忠実」となり、人々の間では「誠実、信頼」となる
l  神様に対する信仰が、いつも揺らいでいると、祈りの答えを受け取ることは難しい
l  どんなに能力があっても、誠実さに欠ける人を、人々は信頼することはない
l  御霊の実を実らせるような生き方をしている人を、周囲の人々は信頼し、祝福するようになる
l  その結果、「神様から」と「人々から」の二重の報いを受けるようになる

III. 誠実に生きるために戦う
マタイ 5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
l  ただ「良い人」であるだけでは、誠実とは言えない
l  神様に従おうとする「信念」をもって、「誠実で正しい(神様の義)」な生き方をしようとすること
l  その時に周囲との軋轢(あつれき)、衝突が起こる
l  それは、「義と罪」「誠実と不誠実」との間に起こる戦い
l  「世の光」「地の塩」としの私達がいることで、社会の暗闇と腐敗が進まないように導かれている
l  神様は、私達と共にいて戦いに勝利させてくださる

2012年8月26日(日) 「善は急げ!!」


メッセージ:林 幸司 主管牧師

聖書箇所: ガラテヤ5:22、ローマ3:12、ガラテヤ6:9、マタイ10:16など
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ローマ 3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

I. 悪 に負けそうになる時がある
ガラテヤ 6:9 善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
1テサロニケ 5:15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
この社会には、「羊の皮を着たオオカミ」がたくさん存在する
オレオレ詐欺や善意を利用された出来事を見聞きする事に、現代人は「気をつけなければ!」と警戒する
その結果「むやみやたらに、善意をもって生きるべきではない」と思ってしまう
悪を行う人々は、人々の善意につけこんで悪を行い、利益を得る
あまりにも多くの「裏切り」にあって、失望してしまっていないだろうか?
「それなら、私も悪をもって悪に報いる」と思いたくもなる
神様はそんな私達に「善を行うのに飽いてはいけません」と言われる

II. 蛇 のようにさとく、 鳩 のようにすなお
マタイ 10:16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。
イエス様も、この世界が悪と罪に満ちている狼たちの集まりであることを認めておられる
その上で、私達を「赦された、聖さを持った神様の子ども達」として遣わされる
もし、私達の内側に「善」が全く無かったとすれば、「善意」は100%神様のもとから来る御霊の実であることになる
それは、本当に相手のため、社会と世界のために益となる善意となる
神様はすべてのことをご存知の上で、私達に善を行わせようとされる
蛇のようにさとく、鳩のようにすなおであるために、自分の考えによる善意ではなく、聖霊様に教えていただく善意を行う必要がある
ある時には、私達の限られた知識や判断力ではわからない善意もある

III. 悪や偽善は善に 打ち勝つ ことはできない
ローマ 12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ヨハネ1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
一時的に負けたように思っても、最後は勝利する!
悪を行っている人は、明るみに出ることを恐れて、光の方に来ない。
いつも恐れながら、生きなければならなくなる
箴言 28:1 悪者は追う者もないのに逃げる。しかし、正しい人は若獅子のように頼もしい。
神様からの善意で行きようとする時、私達は公明正大に生きることが出来る
  ・胸を張り、自信を持って、聖霊様からの善意を求め、実行して生きる者になろう!

2012年8月19日(日)「小さな親切、大きなお世話?」


メッセージ:林 幸司 主管牧師
【先週のメッセージより】

【神様は、やさしいお方】、
【神様は気前の良いお方です】コロサイ2:14
【神様は正しいお方です】ローマ8:28,黙示録2:4,ローマ5:8
【イエス様は世の光です】ヨハネ3:19
【イエス様は真剣です】

聖書箇所: ガラテヤ5:22、Ⅰコリント13:4、ヨハネ15:4〜5、エペソ4:32
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
Ⅰコリント13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。

I. イエス・キリストとつながると、いのちが流れ実をならせる
ヨハネ15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
私達は、自分の力で御霊の実を成らせることは出来ない。
イエス様につながると、イエス様から「いのち」が流れてくる
「いのち」は「生きる力」「愛する力」「実を成らせる養分」となる
私達の行動様式の順番を変える必要がある
状況→自分の考え→行動からイエス様の思いを求める→受け取る→行動→実をならせる

II.親切とは、相手の身になって 寄り添う 行動
エペソ4:32 お互いに親切にし、 心の優しい人となり、 神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、 互いに赦し合いなさい。
身近に寄り添い、行き届くようにする行為
「寄り添う」とは、相手が立ち上がることができるように、手を添えること
イエス様からの愛と知恵をいただいて、時にかなった「親切」を実行できる者になれる

III.  大胆に親切 を行う人になろう!
エペソ 6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
多くの人が、「大きなお世話」と思われることを恐れて寄り添わない
相手の必要を知らなければ、「大きなお世話」になってしまう
相手が自分でやるべきことに手を出すべきではない
たとえ、相手から「大きなお世話」と言われることがあっても、本当にイエス様の御心なら、親切をやめるのではなく、大胆に行動したい!
チームで共に祈りながら、その人に寄り添い、必要を知り、それに応える私達となりたい!
最も大きな親切は、いのちの道を伝えること!
  ・その人自身も必要だと感じていない領域に、本当の必要・答え・人生の祝福が用意されている