2012年11月15日木曜日

11/15(木) 14ヶ月聖書通読13日目  今日の聖書箇所と明日の聖書箇所


みなさんおはようございます。

本日の聖書箇所は、創世記34~36章、ルカ14章 です。
明日の聖書箇所は、創世記37~38章、詩篇7、ルカ15章です。

【ヤコブの娘デナが辱められる】
創世記 34:1, 2 "レアがヤコブに産んだ娘デナはその地の女たちに会おうと出かけて行ったが、 その地のつかさ、ヒビびとハモルの子シケムが彼女を見て、引き入れ、これと寝てはずかしめた。http://bible.us/81/gen.34.1.ja1955
・デナが辱められたことで、大きな問題になります。
創世記 34:25, 26 "三日目になって彼らが痛みを覚えている時、ヤコブのふたりの子、すなわちデナの兄弟シメオンとレビとは、おのおのつるぎを取って、不意に町を襲い、男子をことごとく殺し、 またつるぎの刃にかけてハモルとその子シケムとを殺し、シケムの家からデナを連れ出した。"http://bible.us/81/gen.34.25.ja1955
・シメオンとレビによる虐殺をどう考えればよいのでしょうか?いくらデナが辱められたとしても、この報復は度を超していると言えます。「目には目を」という決まりは、「目をやられたら、目をやりかえすことでやめておきなさい」という意味合いが含まれています。それに照らし合わせてみても、町の男子をことごとく殺すことは、容認できない行動です。

【ヤコブ、イスラエルとなる】
創世記 35:9-13 "さてヤコブがパダンアラムから帰ってきた時、神は再び彼に現れて彼を祝福された。 神は彼に言われた、「あなたの名はヤコブである。しかしあなたの名をもはやヤコブと呼んではならない。あなたの名をイスラエルとしなさい」。こうして彼をイスラエルと名づけられた。 神はまた彼に言われた、「わたしは全能の神である。あなたは生めよ、またふえよ。一つの国民、また多くの国民があなたから出て、王たちがあなたの身から出るであろう。 わたしはアブラハムとイサクとに与えた地を、あなたに与えよう。またあなたの後の子孫にその地を与えよう」。 神は彼と語っておられたその場所から彼を離れてのぼられた。"http://bible.us/81/gen.35.10.ja1955
・ヤコブとのアブラハム契約の更新。正式に、彼はイスラエルとなりました。神様の約束やビジョンをいただいた時から、それが実際に実現に至るまでには、時間差があります。
そのことを覚えて、私達は神様を信頼し続ける者になりたいと思います。

自分から名誉を求めるな】
ルカによる福音書 14:11 "おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。"http://bible.us/81/luk.14.11.ja1955
・私達は、競争社会に生きています。それぞれにポジションがあったり、経歴、キャリアなどを問われます。そんな時、ついつい人々に偉そうな態度を取ったりしてしまう誘惑があります。
けれども、偉そうにしている人は、あまり好かれることがありません。その立場がなくなった途端に、誰も話してくれなくなったとしたら、人々はその人自身ではなく、その立場によって扱っていたことがわかります。
自分を低くするということ(謙遜な生き方をする)ということは、神様と人々によって高くされるという結果をもたらします。
そういう成熟を目指して、歩みたいと思います。

今回は、ルカの福音書をリビングバイブルでも読んでみます。
【宴会に招待された客】
ルカによる福音書 14:21-24 "召使は戻り、ありのままを主人に報告しました。 主人はかんかんに怒りました。 そして、『よし、それなら、今度は大通りや裏通りに行って、貧しい人や体の不自由な人、足の不自由な人、盲人たちを、片っぱしから招待して来い』と命じました。 そうやって客を集めても、会場にはまだ空席が目立ちます。 それで主人は言いました。 『えーい。 もうこうなったら、家がいっぱいになるように、街道や垣根の外へ行って、出会った者はだれでもかまわん、無理にでも連れて来い。 初めに招待した者たちには、一口だって宴会の食事など出してやるものか。』」"http://bible.us/83/luk.14.21.jlb

・招かれていても、人々はその招待された特権について、あまり価値がわからないということがあります。ここでは、招かれた人々は、律法学者やパリサイ人ということもできます。
この食事は、神様と共に食卓に着くことを意味しています。それは死んでからではなく、私達の人生の中で起こる、救いの奇跡をも意味すると思います。
・もし、イエス・キリストがあなたを食事を誘ったら、いろいろな言い訳をして断るでしょうか?それとも、「是非ご一緒させてください」と応えるでしょうか?
私達は忙しい日々を送っていますが、是非ともその招きを聞き逃さないように、そして招きに応えるようにしたいと思います。

ルカによる福音書 14:26, 33 "「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。"http://bible.us/81/luk.14.26.ja1955
・聖書学校の学生の時、ある授業で「私は、両親を捨てて、イエス様に従ってきました」と言ったことがありました。その教授は、とても怒って「ばか者!!君が両親を捨ててきたのではなく、両親が君を献げたのだ。そんなこともわからないで、牧師になろうと思っているのか?!」
と一喝されたことを思い出しました。「ああ、本当にそうだなあ・・・」と思いました。母は、「あなたがせっかく一人前の社会人になったと思ったのに、またこれから聖書学校に行くの?」と泣いていたことを思い出します。今でこそ、神様の恵みで牧師をしていますが、当時は先の見えない、ましてやクリスチャンでない両親にとっては、無謀な決断を了解してもらったと思います。
・「イエス様を信じると良いことがあるよ」と言って、福音を伝えるのは、ある意味片手落ちかもしれません。「イエス様を信じて、弟子になるのには、相当の覚悟が必要だよ」と本当のことを伝えるということが少なくなったように思います。けれども、弟子として生きる覚悟をすることは、やはりすばらしい選択だと思います。

あなたは、「イエス・キリストを信じています」というクリスチャンですか?それとも「私はキリストの弟子です。(あるいは弟子になろうとしています)」というクリスチャンですか?
どちらの道を選びますか?

この御言葉の意味を深く考えながら、今日一日を過ごしたいと思います。
主の豊かな祝福がありますように。